20190527 地域通貨とか

これは日記である。

何でそう思ったのか忘れたけど、昨日、ふとした拍子に思ったこと。

 

信頼の負債としての貨幣は、顔の見えるもの同士でのやりとりがしんどい気がする。

地域通貨を考えた場合、記帳型が素敵だなと思ったのだけどそこが少しヘビーな部分だった。

 

アンペイドワークの可視化だけが目的であれば、地域通貨というより、感謝の表現、いまなら「いいね」を贈ることで十分かもしれない。

しかし「うしろめたさ」の流動性を高めるという意図を持つと、人間経済で循環する仕組みが何かしら要請されるのではなかろうかと思う。

 

ここに記帳型の地域通貨が素敵だなと思う基礎があるのだけど、直接のやりとりは負債/うしろめたさを負うものだけでなく、負わせるものもしんどいだろうと推測する。

 

しかし存在の薄い中心としてのラーニングセンターを媒介とすることで、いい距離感になるのでは無いだろうか。つまり借りを作るものはラーニングセンターという法人格に借りを作り、貸しを作るものも同様になる。記憶の中でしっかりとうしろめたさを残しつつ、負った個人に対しては大きな感情を持たないことができる仕組み。そこにはやはり空白が、余白が必要だろう。バランスをとるために先に在る空白としてのラーニングセンター。

 

あと、ラーニングセンターは溜め込んではいけない。流動性を高める役割として中心に存在する。それもとても大切な役割だが、一番大切ではない。いつも何かに席を譲ることができるような謙虚さで、ラーニングセンターは借りを作り借りを返す。

 

抽象的になり過ぎた気もするけど、まずはこんな想いからスタートしても良いのではないだろうか。いくつも在る地域通貨のひとつとして。