「うしろめたさの人類学」を読みました 02

前回に引き続いて。

 

うしろめたさ、もよく考えるとなかなかにパワーワードだなと感じる。

エチオピアで物乞いをする人々から感じるうしろめたさについて論じられていますが、日本にいて普通にサラリーマンをやっていても、意外とうしろめたさをきっかけに行動をしている場合がある気がする。

このあいだ資料作ってもらったから今回は手伝おう、とか。前の飲み会断っちゃったから今度は行こう、とか。俺の方が若いから席立とう、とか。皿洗ってもらったからゴミ出そう、とか。

うしろめたさみたいな弱めの感情なんか無視して、もっと合理的なロジックを根拠に行動したほうが良い、というのが都会の一般的な雰囲気だと思っていたのですけど、ミクロに見ていくとそうでもないのかな。このあたり、経済合理性についての本など今度読んでみよう。「予想通りに不合理」あたりかな。

 

交換モードと贈与モードについても腑に落ちる。でもそう考えると上の例なんかは贈与モードからの交換モードなのか。うしろめたさを媒介にした贈与と交換の行き来とでもいうのか。このあたりもう一回読み直してみよう。

でも単純に、交換モードのほかに贈与モードを自分に備えておく、というのは日常を気分良く過ごすために良いと思う。というか、だいたい4つくらい自分のベーシックなチャンネルを作っておくと、何かで落ち込んでも別のチャンネルに切り替えることで気分が落ち着いたりするから、交換・贈与モードを土台にチャンネルを増やせそうな気がする。チャンネルでもコミュニティでもモードでもカテゴリーでもなんでも良いけど。

今度地方で活動する予定だけど、とりあえず贈与モードで入りたいだよなぁ。

 

日常を楽しく過ごそうとすると、合理的な行動とうしろめたさみたいな感情からの行動のバランスをとることが大切なのかなと思う。そしてそのバランサーがうしろめたさなのかもしれないと思うと、入れ子状態でそれも面白い。